4回生になった  03

1983年5月20日金曜日

毎年恒例になっている、大屋さん、中山酒店で焼肉パーティ、食事をよばれる。さんざん大屋さんに陰口をたいていた大江君は、この日はご機嫌で食いまくっていた・。那谷くんは恐縮しながら、焼肉をくっていた。鍛治さんがいないので、なんか、さみしい、大屋さんは、なんか、おまえら歌でも歌え、

大江と逢坂と 酒と泪と男と女を歌う。

1983年5月10日火曜日

2講目3講目んでる、なにしろ、4回でなんとかとりこぼした単位をとるために月曜日火曜日はみっちり、1講目4講目までいれていたのだが、

だんだん、さぼりはじめていた。帰り、ひがしの下宿、松清寮による、ひがしのところによるのは日課でもあった。

そして、四条まででて、本を買いに行く。ブルータスで読んだ。藤原信也の本を買いに行く、もう彼にぼくは没頭していた。

「メメント・モリ」 (ラテン語で死を想え、)東君が事故死で突然亡くなったことで、死について考えていたのだ。

そして、LOOK AT ME 宮内 勝典  東京漂流 藤原信也 二冊買う。

下宿に帰ると、藤井さんが部屋にいて 

「将棋をしよう」という、もう何回も何回も勝負するが、京都大学の彼は京産の僕に必ず負ける。

ぼくは将棋は親父に鍛えられて強かった。親父も祖父に鍛えられ、先祖代々、強い。

なんとか勉強したいのに、せなあかんのに、藤井さんはじゃまをするのだ。

二人で、北山どうりのラーメン北国にいく。やっと、藤井さんが返ると、

逢坂が

「最近、那谷がだらだらしてるので、どうおもいますか?」

と、言ってきた、この前、大江がだらけて、目標を失ったようにみえたので、説教したのに・・。

内心、またか、と思った。

しかし、今考え起こすに、逢坂も俺も、あのあずまくんが二年生で突然死んで、楽しい学生生活を過ごすこともできない。

時間。というものに、命。というものに、

無駄にしていけない。こう、思い込んでいた。今思えば、そんなん、すきにほっておいたらええねん。

自分もだらだらしてたときあるやろ。と、

しかし、ありとあらゆる方面から、大江君をなんとかしてほしい。といわれたことを思い出す。

那谷もせっかく、下宿をはじめて、どうなんやと、

思い返すに、自分のこの説教癖。このあとずっと続く、しかし、あるときから、やらなくなった・

何をいってもあかん、いうだけ無駄。そうおもうようになったからだ。

しかし、先天的なものがぼくにはあり、母親の父が、教育大学の学長であり、父親の母は二人いて、一人目は若くして死んで

二人目もいらして、一人目も二人目も教育関係の校長、学園長であった。

だから、実を言うと、ぼくは教師になるべきだったのだ、しかし、中学高校の先生のていたらくをみて、嫌になった。

まあ、あほであったのもあるが、

その日の11時半に那谷を僕の下宿によんで、説教をした。

ぼくが、いかに無駄な時間を費やして後悔したこと、

あずまくんが死んで 時間と命は大事であること、

彼は、そこで、僕に頼んだ。

「ミニFMに僕も入れてください」

ぼくは何度も実は拒否した。というもの、下宿にいる三人が同じサークルをするのは・・

「おまえは、なんか、違うのをしろ」

「ミニコミ誌なんか、だしたらどうか?」

ミニFMは、綿密な計画のもと、大江君が動いていた。動き始めていたころだ・・・。

ほんなら、参加するか?ということで、彼も参加することになったのだ・。

 

いろいろな人生はいろいろなひとや出来事に影響される。

ぼくが、小山コーポを言う下宿にくる。そこで、出会う人間。

友人が死ぬことにより、後輩たちに深い影響を与え、ぼくが説教をする。

しかしだ、おどろくべきごとに、この二人はのちに卒業し、就職し、

仕事をこなし、どんどん偉くなってゆくのだった。

両方とも 取締りにまでUPした。ぼくの説教が聞いた?わけでもないが、

これこそ、「波及効果」であるとおもう、

ぼくはしがない弁当屋のおやじであるが、この差はいったいなんだ。

あずまくんの部屋には大江君がはいり、その部屋からこの歌が何度も流れてきた。