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1982年5月2日土曜日

下宿 小山コーポの 先輩鍛治さんと後輩逢坂と僕と三人、ゴールデンウィークを利用し、東君の墓参りに行くことにした。

京都駅で 急行の指定券をとる、朝飯を駅の食堂で食い、おみやげを買おうということになった。妹の直美ちゃんにカバンを買おうということになり

駅のデパートで買う。

直美ちゃんの声が、三人の頭の中を永遠にリフレインしていた。足羽山の火葬場の扉が閉まる時に叫んだ。

「おにーちゃん!!」

そして、何回も蘇える、足羽山の公園で藤井さんと逢坂と呆然とたたずんでいたとき

煙突から 煙があがり、藤井さんが

「ああー煙になってしまった」と つぶやいた。いろんな人の知り合いの死というものに遭遇したが、東君の事故死だけは、僕ら全員、PTSDにかかってしまっていたようだとおもう。

 

三人であまり話すことなく、福井駅に着いた。当時は、地上駅で、着いたらすぐ改札が前にあり、いい駅だった。

東君と仲の良かった、京都大学の小林さんが迎えに来てくれた。そして、家に案内してくれてそこに止めてもらうことになった。

再び、福井駅にもどり、東君の福井の高校時代の友人たちが集まってきた、養老の滝でみんなで乾杯し、その日は小林さんの家にいった。

翌日、緊張しながら東君の実家に三人で訪れた。ごちそうを用意してもらい、東君のおとうさんおかあさん、そして妹の直美さんと

いろいろ話した。話すと、おかあさんは何度も何度も滝のように涙を流していた。

「俊一は、みんなに迷惑かけてなかったですか?鍛治さんに借金してなかったですか?」

ぼくらは、迷惑なことはないです。

「俊一がね、いつもいってたんですよ、もやしを買ってきて、トースターで焼いて、醤油をかけてたべる。それを酒のあてにして

飲むと、おいしいだと・・」

「ああ、よくやってましたね・・。」

お父さん(延也)さんは、おもむろに立ち上がり、手にカセットを持って帰ってきた。

「こんなものがでてきてね、聴いてたら、ギターで俊一が歌ってるんですよ」

僕は、驚いた。

「そういえば、よく、夜にギターを弾いてました、」

カセットをラジカセに入れると、静かな小さい声で歌が聞こえてきた。

何の歌だったのか、「案山子だった」。さだまさしの歌だった。悲しすぎてぼくらは声が出なかった。

きっと、延也さんは、東君のカセットテープをいっぽんずつ、聴いたに違いなく、もしかして、声がはいってないか

そういうものを探したのか、そこまで思っていたのか・・。

「荷物をね、どうしようもないんですよ、こっち引き上げてきて、荷物だけ帰ってきてしまって・・」

ぼくらは、あの時を思い出していた・。

年末の事故で、冬休み、正月明けて、下宿に戻った。彼の部屋をのぞくと、

机ひとつだけあって、なんもない。なんもなかった。そこに存在していなかったように・・。

鍛治さんが、

「お父さんと知り合いが昨日、荷物を引き上げていったんだ」

その荷物。

悲しい歌だったのか、

彼の歌う案山子。皮肉にも その歌詞は親父が息子を心配する歌だ。

元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る

まさか、死んだ東君はその歌を、僕らが泣きながら聞いているとも知らず、隣の部屋の三畳の僕の部屋に聞こえないくらいの小さい声で

歌っていた。

ぼくらは、お酒にもよっぱらってしまい。意識も喪失しそうだった。

ぼくらが帰ろうとしたとき 裏口で犬が吠えた。

「あの犬ね、俊一が亡くなった日にうまれたんですよ、直美が買ってくれ、買ってくれ、何度も言ってね、犬を飼ったんですよ」

ぼくらは、あの日に生まれたの命を見た。去るもの来るもの・・。

福井駅にもどり、ゴールデンウィークのためか、激込みの雷鳥20号で、福井を離れた。

北陸本線を走る雷鳥の中で、三人とも、言葉がなかった。

逢坂君がふと、口を開いた。

「大江にはいついうんですか?」

そうだ、東君の下宿の部屋は、4月に新入生が入ってきていた、大江君というやつだった。

どことなく、東君に似ていたので、僕らは三人とも、言葉を失った。

「そうやな、おれがいうわ、そのうち」

「ぼくも付き合いますよ」三人でいえばいいやん。

ぼくらは、大江には、前にいたのが事故で死んだ、と、いいそびれていたのだ。

京都について、とぼとぼ、北大路から帰り、大屋さんに報告し、鍛治さんはおみやげのますずしを持っていった。

「そうか、ごくろうさんやったなあ」おばさんは、そういった、奥で大屋さんはよっぱらっていた。

「俺はかなしいねん、おまえらも事故には注意せーよ」

このころからか、大屋さんは酒の量が増えてしまい、アル中になってしまった。夜中に僕らの下宿に来て

突然話しかけたり、大江がその被害を一番こうむっていた。

「酒屋がさけのんでどうすんねん」ぼくらは心配したが・・。

しかし、その30年後、ぼくは、ひとりで福井にいき、東君のお父さんと墓参りにいき、仏前に出を合わせた。

東君が死んで、開けて正月すぐ4日だったか、大屋さん夫婦は、福井へいったという。

大屋さんは、お父さんお母さんに、土下座して謝ったという、大屋さんは何も悪くないのに、責任を痛感し

そういうことがあったのをぼくらは知らなかった。

ただ、大屋さんがよっぱらって、来るので腹がたった、

「俺の地蔵をしってるか?」

ぼくらは何のことかさっぱりわからなかった。

数日たち、大学から帰ると、下宿のポストに黄色の封筒が落ちていた。

まただ、これで、三通目か・・。

 続く 2025/0504