1982年5月7日金曜日。 夕方、藤井さんが来る。鍛治さんと逢坂と僕と藤井さんで千なり食堂にいく。

みんなで、飯食って、下宿に帰り、鍛治さんの部屋に集まる。
「東君の文通相手の女の子の手紙、またきたのか?」
鍛治さんの部屋の引き出しから、三通の封筒が出てきた。
「どうする?」鍛治さんはみんなに聴いた?
「知らんふりするか・・。返事をまってるなんて、可哀そうだよな、」
ぼくは、言った。
「どこで知り合ったんですか?」逢坂は聞いた。
鍛治さんはこういった。
「夏のアップルの合宿で、長崎にいったとき、現地で知り合った高校生の女の子らしいよ・・」
「そうか、高校生の女の子か・。東君にひとめぼれしたんだろうな・・・」
みんなで、その対処について悩み。答えは出なかった。
ぼくは、決心した。
「僕が言いに行きます、手紙を返します。東君が死んだことを直接、言いに行きます」
「そうか、そんならたのむよ」
みんなは、なけなしの金を出し、交通費のたしの金をくれた。
1982年5月8日土曜日。授業をさぼり、新幹線に飛び乗り、東京へ向かった。
ひかり520号。5月ばれのさわやかな空。嫌な役目を自ら買って出て、少々不安だった。
行先は手紙に書いてあった。彼女の住所。
富士川鉄橋を超える頃、見事な富士山を見た。人生初めての富士山だった。
今思い出しても、無謀な若さゆえの行動。
川崎市多摩区王善寺・・。神津千絵さんという女の子だった。
東京駅で飯を食いながら、地図を見ていた。
地図で、その場所を見て、新宿に行った。銀行のATMで、一万おろし、小田急の駅に向かった。
まずは、向ヶ丘遊園地に降りた。いまは、麻生区になっている、
駅の前をあるいてもさっぱりわからん。駅前のポリボックスを訪ねた。
警官は優しく教えてくれた、登戸駅にいきなさいと。
ぼくは突然家を訪問するのも、いかがなものか、考え、電話することにした。
しかし、電話番号がわからない。駅前の電話ボックスに入り、住所と名前で電話番号を探した。
いまなら、そんなことはできないが、なんと、その名前があったのだ。
ぼくは10円玉を数枚握りしめ、その女の子に家に電話した。
どういう事情でどういう自分かを電話で説明できないか、考えもせずに
電話した。すぐに女の子は出た・・。
ぼくは、事情を説明した。いきなり、話したので、女の子は絶句して、電話の声もしなくなった。
突然、お父さんがかわり、いたずらか、変質者かと、警戒したのか
「うちの子供になんのようか?」と聞いてきた。
でたよ、このパターンには慣れてる。
きちんと説明した、お父さんは、一旦電話をきるから、少したって、またかけてくださいと
時間をおいて電話すると、
「わかりました、明日あいます、どこにいますか?」
ぼくは、その日は市ヶ谷のYHに泊まるつもりだから、市ヶ谷駅でお願いします。と、伝えた。
そして、新宿まで、帰り、市ヶ谷のユースホステルに着いた。夜に下宿に電話し
「明日なんとかあえて、手紙返して、事故の出来事を説明します」
翌朝7時に起きて、うろうろ徘徊し、ロッテリアで朝飯を食った。
そして、待ち合わせの駅にいった。改札でまってると、切符売り場に財布が落ちていた。
中を見ると19万ほど入っており、時間がないので、駅員に渡した。
「権利を放棄しますか?」といわれて、なんのことやと、思いつつ、サインをした。
そして、数分後、女の子が二人現れた。
「すいません、おさたにさんですか?」
「あ、はいそうです、あれ、神津さんは?」
「すいません、彼女は来ません、」
「え、なんで?」ぼくはショックだった。
事情を聴くと、相当ショックだったようで、僕に会える自信がないので、友人を二人いくように頼んだとか、
よくよく考えれば、じかに会って言うつもりが、電話で言わなきゃいけない状況になり
なんのために、京都から東京に来たのかと・・。思った。
杉田さんと岩村さん、という女の子で、彼女たちも長崎で東君にあったそうだ。
とってもかっこよく、彼女たちもテニスが好きなので、教えてもらったそうだとか・・。
原宿で喫茶店にはいり、東君の事故のことを説明し、手紙を三通取り出し、渡した。
楽しい話や、笑い話もなく、重苦しい空気が流れた。
しかし、ぼくは、こう、と伝えた。
「東君の分まで生きてほしい、東君の分まで人生を謳歌してください」
彼女たちは深くうなずいた。
その後、東京案内をすこしするように、言われたらしく、代々木公園の竹の子族を見て、関西にはまだなかった、東急ハンズにはいり、
すこし、うろうろした、彼女たちは年下なのに、なぜか、大人でしっかりしてた、驚いた。
そして、別れた。彼女たちはさようならをいい、去って行った。
時間が少し空いたので、吉祥寺にする浪人生の友人と会うことにした。
彼はなんと、有名なビニ本やに連れていった、ぼくは、そんな気にはならないよ、と、すぐに出た。
少し居酒屋で飲んで、最終ひかりで京都に向かった。
その友人も二日目まえに、バイク事故で友人が死んだ。と、しょげていた。
帰りの新幹線で、ぼくは、何をしに来たのか、意味があったのか
自問自答した。別に来る必要があったのか、わからなかった。
ひと月くらいたち、下宿のポストに黄色い封筒が落ちていた。
ぼくは、そっとひらって、神津さんからきた封書を部屋に持ち帰り、読んだ。
あのときはシュックで、現実を認めることができなくてあえなかったと、書いてあった。
さいごに、東君の分までがんばって、生きていきます。と、書いてあった、
封筒に便箋をおさめ、宛先をみた。
宛先はもう、東君でなくて、僕宛になっていた。そこが、すごく、さみしかった。
という、思い出を、63歳のゴールデンウイークの夜に思い出していた。
どこで、どうして、生きてるんだろうな、
#東俊一