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2011年 12月某日。

そのころもぼくは、自分のホームページで東君の思い出を書いていた。もう無くなったが・・。

そこに東君のお父さん延也さんが検索して見つけてくれて メールをくれた。

丁度亡くなって30年がたった年だった。延也さんは「覚えていてくれてありがとう」と、息子の存在の軌跡を見つけたのだ。

ぼくは、決心して、福井の東君の家に行こうと思った。

夜明け前の神戸駅

行きしなは、鈍行で福井まで旅をすることにした。

快速、新快速を乗り、琵琶湖のほとりの近江舞子についた。

思ううかぶことは学生の時のことばかりだった。

福井駅はきれいな高架駅になっていた。延也さんは車で迎えに来てくれていた。

そのまま、お墓詣りにいった。そして、どこかの店でご飯を食べた。

今日は決して泣かないようにしておこうとおもった、延也さんは明るかった。

菅谷の家に行き、お母さんとも対面し、様々なことを話した。

もう、誰もこない、と、言っていた。

アルバムを見せてもらった。マジックで俊一とかいてあり、何度も何度もみたのだろうか、マジックの字がかすれていた。

彼の赤ちゃんのときから高校大学までの写真がびっしりあった。

大屋さんが来て土下座したことや、いろんな知らないことを聴いた。

ぼくも下宿のその後のことを話した。

仏前にさだまさしのCD オフコースのCD そして、もやし を供えた・。

あずまくんが、夜にトースターでもやしを焼いて食っていた話をした。

なんでもなんども、あずまくんのお母さんは泣いていた、

高校の時、姓名判断をして、あずまくんの名前はよくないといわれたとか、改名しようとしたが

本人は嫌だといったらしい。あの時変えていればよかったと、お父さんは言った。

でも、そうではなかった、ぼくも調べたが、その名前は学者さんで有名な人もいるし、

そういうふうに後悔してしまうのが親であろう。

ぼくの親と同じ年だった。

 

 

直美さんの娘さんに映してもらった。もう、心の中では泣いていたが、ぼくのかなしみなどこの二人のものには比べ物にならない、

帰りはサンダーバードにのりこんだ、混んでいた。

また、明日からがんばろうと、思った。彼の分まで生きる。

彼の遺影があったので、撮影した。鍛治さんにも送った。

お父さんにこういった。

下宿で、ぼくが一緒だったのは、わずか 半年余り、

2025/05/29

最後の忘年会で彼と歌った。

遠く遠く 何処までも遠く 流れる河で暮れかかる空にあなた想い